桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)

桂川連理柵 桂川連理柵

38歳の帯屋長右衛門と14歳の信濃屋お半の恋、「お半長右衛門」「お半長」と呼ばれ、人々に知れわたりました。お半長右衛門の情話についてはさまざまな説があって、どれが正しいのか判らないのですが、新京極誓願寺の墓地には、二人の墓と伝える墓表があります。その刻銘は宝歴11年(1761)ですから、今から200数十年まえの出来事です。

桂川に長右衛門とお半の死体があがったのが心中とみなされたのですが、随筆類には、心中とみせかけた強盗殺人事件と記されているようですが、真偽のほどはわからないようです。世間では心中として騒がれ浄瑠璃などに脚色されました。そして安永5年(1776)菅専助により「桂川連理柵」が書かれました。

京都柳馬場押小路の帯屋長右衛門、隣家信濃屋の娘お半の伊勢参り下向と石部の宿でゆきあい、同宿します。その夜、お半はお供に連れてきている丁稚の長吉にいいよられ、長右衛門の部屋へ逃げ込み匿った長右衛門と契ってしまいます。それを見ていた長吉は、腹いせに長右衛門が預かっている正宗の刀をすりかえます。その後、帯屋の隠居繁斎の後妻おとせ、その連れ子の義兵衛により、長右衛門はおとしいれられそうになるのですが、長右衛門の妻お絹の機転によりことなきですみます。

しかし長右衛門は、お半の妊娠・正宗の刀紛失で死を覚悟していました。そんなとき、お半は書き置きを残し桂川へ死に行ってしまいます。。長右衛門は、15~6年前芸妓の岸野と桂川で心中しようとして相手だけ死なせてしまっていることから、岸野がお半と生まれ変わり自分を死へ招きよせる因果をかんじて、お半の後を追い、桂川で心中を遂げてしまいました。

茨木屋は、明治の末に150回忌を、昭和36年に200回忌をいとなみました。

参考文献 カブキ101物語 渡辺 保編
駒 敏郎さん茨木屋のことより

  • このエントリーをはてなブックマークに追加